天台僧の親鸞学徒

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天台僧の親鸞学徒

天台僧の親鸞学徒  大阪府 佐藤芳郎

私は学生時代に親鸞聖人の教えとめぐり合い、天台宗の住職を勤めております。

天台宗の話には、教義らしい教義がありません。もちろん、難しい天台教学というものは存在しますが、大衆に分かるよう説明できる僧侶がありません。

どこの宗派でもそうでしょうが、学者は難しく瑣末な仏典解釈をもてあそび、僧侶は専ら葬式・法事を仕事としているため、人を導くということがないんです。

その点、親鸞会は全く違う。聖人のみ教えをお伝えすること一つに、徹底していると思います。
親鸞聖人は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と、救われた喜びを表され、一方で、「悲しきかな、愚禿鸞」と、救われたのに喜びが起きないと懺悔なされている。これが同一人物のお言葉とは不思議としか言いようがありません。

仏教の真髄である一念の信心を、自分のような者にでも分かるように教えていただき、本当に感動しました。こんなお話は、仏教界広しといえども、ほかでは本当にありえません。

天台をはじめ、聖道諸宗では、二種深信はおろか信心という言葉すら出ない。あの人は信心深い人、とか言うことはありますが、それは先祖を祭る、亡くなった家族の死後の幸せを念じるということで、それ以上のものではありません。信心といってもその程度です。

相反した2つのことが同時に存在する信心、その信心一つで救われる、なんて言われても、かいもく分からない。

信心に真っ暗がりだから、仏教の入り口までも行ってない。親鸞聖人が、「諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」とおっしゃっているのが、ここでもぴんときます。

仏教の信仰と言葉では言っても根本的に違うんでしょうね。私は学生の時から、親鸞聖人の教えを聞かせていただけたから、信心と聞けばすぐ他力信心、二種深信を思いますが、檀家の人が想像する仏教の信心は、全く別ものです。

檀家の人に話していつも思うのは、法然上人のことです。

聖道仏教ばかりの当時、人々に他力信心を徹底しようとされた時、信心と言っても分からないので、行々相対で念仏を教えられた。あの法然上人でさえ、信心を教えられるのに、大変なご苦労をされたんです。

親鸞学徒の私たちは、信心を、スーッと聞いていると思いますが、歴代善知識方のご勧化という、計り知れない経緯があってのことなのでしょう。

仏法の真髄、正しい信心を親鸞聖人より教えていただき、伝えることのできる私たちは本当に幸せです。

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